2024年
現在家業に僕の手伝いは必要ないみたいですが将来的に規模を広げるようであれば助手として少しの時間でも労働に勤しむのもわるくないと思うようになりました。日頃忙しいので特別時間をつくらなくてはなりませんが自然と対話しながら塩田の農業に手助けできれば幸いです。機械の操作には興味がなく運び仕事に徹していこうと思います。必要であればですが。
2004年
二十年前の話し信州の寒さは厳しかった。大豆の収穫による僕の仕事は1トン車に大豆40キロの袋をひたすら積み上げる事でした。まあ1日に2トン以上積み上げ倉庫まで運転して降ろすというこの時期の仕事は過酷な冬を物語る。冷たい風に打たれながらコンバインで大豆を刈り続ける父を1トン車の中で待ちタイミング良く荷台に積む仕事をしていました。ある日僕は遊んでいた後で1時間遅れで仕事を始めました。その間不運にも大豆は雪にさらされてしまい父に酷く叱られました。それ以来仕事の時間は必ず守るようになったその年に父は農林水産大臣賞を受賞しました。
2017年
早朝より畔草を刈り母と田んぼを見回ったりする夏の時期の仕事と低迷。家族には見通しのつかない人生を送ることにも評価は得られず辛い人生を歩んでいました。11月19日僕は故郷を捨て携帯と実印と貯金と車の鍵だけ持ちブランドの服を纏って東へと向かった当然宛てはない。草津で一泊しようとしたがどのホテルもいっぱいで駐車場で思案していた。旅を伴にしようとしていた人が次兄と母を呼び話し合いになり次兄の車にて何故か舞台は上田市の国分駅へとかわる。以下略しますが次兄と二人で再び東へと向かい翌日より想像を絶する不運に見舞われ何にも手につかない日々が再び始まった。もう農業の手伝いもできないことになる。
2000年
振り返れば父親の助手として働いていたことは自慢でした。休みが多い割には困らない日給を貰っていたし向いている仕事でした。大仕事と言われる時だけ手伝い誰でもできる仕事には興味が湧かず部活で鍛えられた身体能力も真面目に仕事に向かい合う姿勢もとても生かされていて作業容量も良かったと言えます。